清水もつカレー総研事務局・清水ブランド大作戦事務局
2016年02月12日
清水御浜御殿の位置
清水御浜御殿
清水御浜御殿は、慶長14年(1609)家康公の十男で
後に徳川御三家のひとつ紀伊徳川家の藩祖となる頼宣公が
父家康公のために建てた御殿。
現在はカトリック清水教会と清水聖母保育園になっているが、
その経緯については
電脳六義園通信所 ぼくの細道がくわしい。
その御殿は慶長16年には焼失し、一部が静岡市沓谷に移築され跡地には屋敷守がおかれたが安永3年(1774)にまたも火事により失われた。
爾来240年が経過している。
話は一気に私事になる。
いつも通る道に気になる風景がある。
岡地区といわれるように一段高いラインに石垣が連なっているのだ。
まてよ清水御浜御殿のあったといわれる、カトリック清水教会が間近だ。
だとすればこれはその痕跡ではないか?
カトリック清水教会まえの海に向かう坂、石垣が御殿跡を示している。
南に向かう石垣、北東の角
角地から南に向かう路地の民家にも石垣がある
路地を抜けると、下清水八幡神社(船玉神社)の石垣は切り込み矧ぎ
神社を過ぎた民家にも上にブロックがのっているが、下部は石垣である
民家の先は宗教施設の石垣
宗教施設が多分南東の角と推察し西方向には月見里(やまなし)稲荷の石垣
石垣は右手に伸びている。石は中央部分が膨らんでいる。
この形状に心当たりの人はいないだろうか。
つぎに西側の痕跡をさがす。
カトリック教会の西側、岡の上部分には路地があり保育園駐車場の入り口となっている。
駐車場から先は車は通れない路地となっているが、水路がある。
堀が巡らされていたとすれば、水路も痕跡の一つかも知れない。
そのまま進むと路地がつながり水路がつながっている。
角にわずかだが石積みがある。
その先の路地は行き止まりになってしまうが、水路の右側には境界に石が並べてあった。
ということで、何の知識もない私が、見慣れた場所の不思議をフィールドワークで想像してみた清水御浜御殿の推定位置図。
御浜御殿の推定マップ(マーカーは写真撮影の位置)
文献の情報ばかりでしたので、ブラタモリを見倣って現地調査してみました。
専門家の方の情報などがあり清水がおもしろくなればいいなと思い投稿します。
清水御浜御殿は、慶長14年(1609)家康公の十男で
後に徳川御三家のひとつ紀伊徳川家の藩祖となる頼宣公が
父家康公のために建てた御殿。
現在はカトリック清水教会と清水聖母保育園になっているが、
その経緯については
電脳六義園通信所 ぼくの細道がくわしい。
その御殿は慶長16年には焼失し、一部が静岡市沓谷に移築され跡地には屋敷守がおかれたが安永3年(1774)にまたも火事により失われた。
爾来240年が経過している。
話は一気に私事になる。
いつも通る道に気になる風景がある。
岡地区といわれるように一段高いラインに石垣が連なっているのだ。
まてよ清水御浜御殿のあったといわれる、カトリック清水教会が間近だ。
だとすればこれはその痕跡ではないか?
カトリック清水教会まえの海に向かう坂、石垣が御殿跡を示している。
南に向かう石垣、北東の角
角地から南に向かう路地の民家にも石垣がある
路地を抜けると、下清水八幡神社(船玉神社)の石垣は切り込み矧ぎ
神社を過ぎた民家にも上にブロックがのっているが、下部は石垣である
民家の先は宗教施設の石垣
宗教施設が多分南東の角と推察し西方向には月見里(やまなし)稲荷の石垣
石垣は右手に伸びている。石は中央部分が膨らんでいる。
この形状に心当たりの人はいないだろうか。
つぎに西側の痕跡をさがす。
カトリック教会の西側、岡の上部分には路地があり保育園駐車場の入り口となっている。
駐車場から先は車は通れない路地となっているが、水路がある。
堀が巡らされていたとすれば、水路も痕跡の一つかも知れない。
そのまま進むと路地がつながり水路がつながっている。
角にわずかだが石積みがある。
その先の路地は行き止まりになってしまうが、水路の右側には境界に石が並べてあった。
ということで、何の知識もない私が、見慣れた場所の不思議をフィールドワークで想像してみた清水御浜御殿の推定位置図。
御浜御殿の推定マップ(マーカーは写真撮影の位置)
文献の情報ばかりでしたので、ブラタモリを見倣って現地調査してみました。
専門家の方の情報などがあり清水がおもしろくなればいいなと思い投稿します。