清水もつカレー総研事務局・清水ブランド大作戦事務局
2009年04月05日
おもしろ清水まちあるき 久能寺観音道
姥ヶ池から次の目的地まで、今回で一番距離があるというか、説明するものがなかったのだが、旧東海道追分から踏切を越え平川地(ひらかわぢ)にはいると、奇妙なものが目に入る。
竹串に球状のものが先端近くに刺されたものが、所々に立っている。
近くで見ると、それはミカンのようなものだ。
長年清水に暮らしてきて、これは何なのと思ったことはあるけれど、追求したことはなかった。
今回のまちあるきでようやく謎が解けた、というか、謎のままだがその風習がわかった。
これは、お正月飾りについていた、橙(だいだい)をどんど焼きのときに竹串に刺して焼き、それを魔除けとして、家の外周へたてるという、この地域の風習だと云うことだ。
いつごろ始まり、この風習がどの地域までの広がりがあるのか、どの程度残っているのか、言及した文献はあるのか、このことをなんと呼ぶのかまったくわからない。
謎だ。民俗学・郷土史家の人に聞いてみたい。
そんなものをみながら約800mの道のりを歩くと、また道標がみえる。
これが、久能寺観音道 道標だ。
久能寺観音道とあり、片側に建立の年月、安永七年秋八月とあり、もう片方に願主とあり妙音寺村若者中とあり、今から230年ほど前に妙音寺の若者有志がたてたものであることがわかる。妙音寺の地名は今はない、そして若者がたてたとあり、追分の豪商が寄進した御影石のような立派なものではないが、その当時の若者の心意気が伝わってくる。どんな仲間たちであっただろう。
この道はこの平川地から有度山麓を通る「根方道」のことであり、久能寺(現在の鉄舟寺)までの約2㌔の道。
富士から三島にいたる県道22号線三島富士線も通称「根方街道」と呼ばれている古い道がある。これもたしかに愛鷹山の山麓を通る道だ。
久能寺はもと久能山にあり、武田信玄が今川義元攻略のために築城したため天正三年(1580)今のところに移された。明治になり廃寺となったのを、山岡鉄舟が再興した。
東急社長でもあり静鉄の社長も務めた、五島慶太が静岡に過ぎたるものといった一つの「久能経」、源義経の薄墨の笛(例の、京の五条の橋の上、弁慶と牛若丸が出会ったときに吹いていた笛)などがある名刹。
若者たちはそれを誇りに思っていたかもしれない。
誇り、まちを好き、これがまちづくりの第一歩だ!
竹串に球状のものが先端近くに刺されたものが、所々に立っている。
近くで見ると、それはミカンのようなものだ。
長年清水に暮らしてきて、これは何なのと思ったことはあるけれど、追求したことはなかった。
今回のまちあるきでようやく謎が解けた、というか、謎のままだがその風習がわかった。
これは、お正月飾りについていた、橙(だいだい)をどんど焼きのときに竹串に刺して焼き、それを魔除けとして、家の外周へたてるという、この地域の風習だと云うことだ。
いつごろ始まり、この風習がどの地域までの広がりがあるのか、どの程度残っているのか、言及した文献はあるのか、このことをなんと呼ぶのかまったくわからない。
謎だ。民俗学・郷土史家の人に聞いてみたい。
そんなものをみながら約800mの道のりを歩くと、また道標がみえる。
これが、久能寺観音道 道標だ。
久能寺観音道とあり、片側に建立の年月、安永七年秋八月とあり、もう片方に願主とあり妙音寺村若者中とあり、今から230年ほど前に妙音寺の若者有志がたてたものであることがわかる。妙音寺の地名は今はない、そして若者がたてたとあり、追分の豪商が寄進した御影石のような立派なものではないが、その当時の若者の心意気が伝わってくる。どんな仲間たちであっただろう。
この道はこの平川地から有度山麓を通る「根方道」のことであり、久能寺(現在の鉄舟寺)までの約2㌔の道。
富士から三島にいたる県道22号線三島富士線も通称「根方街道」と呼ばれている古い道がある。これもたしかに愛鷹山の山麓を通る道だ。
久能寺はもと久能山にあり、武田信玄が今川義元攻略のために築城したため天正三年(1580)今のところに移された。明治になり廃寺となったのを、山岡鉄舟が再興した。
東急社長でもあり静鉄の社長も務めた、五島慶太が静岡に過ぎたるものといった一つの「久能経」、源義経の薄墨の笛(例の、京の五条の橋の上、弁慶と牛若丸が出会ったときに吹いていた笛)などがある名刹。
若者たちはそれを誇りに思っていたかもしれない。
誇り、まちを好き、これがまちづくりの第一歩だ!
Posted by クールなお at 11:56│Comments(0)
│まちづくり