清水もつカレー総研事務局・清水ブランド大作戦事務局
2009年04月09日
おもしろ清水まちあるき 聖一国師堂
南幹線を清水桜橋方面から静岡に向かい、有度山(日本平)の北端の丘陵の坂道を有東坂の堤側から登っていくと、右側のジャスコと道をはさんだ反対側に、赤い御堂がみえる。
これが聖一国師堂だ。
ジャスコ(イオン)に買い物に訪れる人がどれくらいの数いるのかわからないが、この国師堂を訪れる人がないのは、大変残念なことだ。
かくいう私も、子どものころ「狐ヶ崎遊園地」、青春時代の「狐ヶ崎ヤングランド」の一番奥まった場所にあるこの御堂が何ものか知りもしないし、知ろうともしなかった。
浅学にして最近まで私も知らなかったが、ここに祀られている「聖一国師」は静岡に生まれた高僧でいろいろなことを中国から日本に伝えたかたで、知らなかったことが恥ずかしい。
徳川家康、清水の次郎長、ちびまる子と同じくらい郷土の誇りとしてみんなが知っていていい人なのだ。
簡単にいうと
静岡茶をはじめた人、中国から故郷の足久保へお茶の種を持ってきて静岡にお茶を伝えた。
日本に、水車を伝え、製粉技術を伝えた。つまりそば・うどんを日本に伝えた。
その他、人形・まんじゅうの製法なども伝えた。
京都五山の東福寺(秋になると紅葉の通天橋で有名)の開山さん。
日本で最初にお坊さんの最高位の名称「国師」を天皇から授けられた。
聖一国師堂には南幹線沿いなのだが、そこからは入れず、イオンの駐車場の南から、南幹線の高架をくぐっていける。
急な階段を上らなければならないが、その途中踊り場となっているところに、青島藤治郎の顕彰碑がある。
この方は、現在の伊勢丹の前にあった、静岡県下で最初のデパート「田中屋」つくり、なおかつ静岡の漆器を生かして雛具を産業として興したかたである。
さらにこの御堂の裏手には巨大な「人形塚」がある。
石で作られたおひな様だ。
残念ながら説明文はなにもないが、さきの青島翁と同じく、聖一国師が日本に人形を伝えた祖としてのことだろう。
それにしても、このような巨大な石のおひな様には驚かされるし、それがほとんど知られることもなく、たたずんでいるのはすこしもったいないと思う。
今回の参加者アンケートでも「面白かったものは?」という問に、この人形塚をあげた方が何人かいた。
そして、人形塚の横に「五島慶太翁像」がある。
西の小林一三、東の五島慶太といわれた電鉄王、一代で東急を作り上げた翁の像がある。
この五島慶太翁が、静岡鉄道の事業としてこの「聖一国師堂」を作ったのだ。
碑銘文(行書でかかれ一部読み取れないがそのためあまり紹介されていない)を紹介する。
「故東急会長五島慶太翁は昭和十六年当社社長就任以来、温暖の地駿河路をとくに富士の美しいこの狐ヶ崎遊園地付近に将来の居を望まれるほどこよなくこの地を愛し、訪れることしばしばであった。
古美術、史跡、仏閣等に造詣の深かった翁はかねてから「静岡に過ぎたるものが二つある。聖一国師に久能経」と喝破され、とくに名僧東福寺開山聖一国師については、国師の産業的手腕が翁の( )と脈相通ずるものがあったか、深く傾倒し、遺跡を尋ねて国師生誕の地足久保へも度々足を運ばれた。翁は静岡茶の始祖国師の顕彰は静岡茶の輸送にその歴史が始まった当社の行事として行うよう、勧奨され、国師像の謹作については日展審査員杉本宗一氏に依嘱し、東福寺本山宝物の御本尊より直接謹写してこれを刻み、昭和二十九年七月林恵鏡猊下導師のもとに、翁自ら開眼の式を主宰され勧請安置した。開眼式に臨み翁は秘蔵の「五山板聖一国師年譜語録」を複製し、参列者並びに全国の図書館大学などに寄贈され、その道の貴重な研究資料として尊ばれている。国師は七百年後にしてはからずも翁という知己を得て郷土静岡に帰り、地元産業の交流に当たり、慈悲を垂れ賜うというべきか。
本年国師勧請十年祭を迎えるに当たり改めて翁の遺徳を偲ぶと共に永遠に伝え称えるためにこの像を建ちて所以を述べ記するものとする
静岡鉄道株式会社 取締役社長 川井健太郎」
とまあ、見るところ多い聖一国師堂なのです。
Posted by クールなお at 15:55│Comments(4)
│まちづくり
この記事へのコメント
良い町歩きをしていますな。
恥ずかしながら聖一国師堂については、私も知らなかった。
私も行ってみよう!
恥ずかしながら聖一国師堂については、私も知らなかった。
私も行ってみよう!
Posted by スプリング・フィールド(S・F) at 2009年04月09日 18:48
さがして歩くと、驚きの発見が続々と出てきます。
じつはSBSエブニングアイでも取材報道してくれました。
次はもつカレーツアーというのはどうでしょう。。
じつはSBSエブニングアイでも取材報道してくれました。
次はもつカレーツアーというのはどうでしょう。。
Posted by クールなお at 2009年04月11日 06:48
ここ、あべの書店さんから面白い話を聞きました。もとは戦前、静鉄が山田長政の堂として建てたとか(南方政策の絡みもあったのでしょう)。戦後にそれを聖一国師堂に転用したという話。詳しくはあべの書店まで。
Posted by 真丹後 at 2010年01月20日 12:41
>真丹後さん
あべの書店さんはそれこそ、山田長政生家のすぐそばですよね。
それにしても国策に翻弄されるというのはあり得ることです。
長政顕彰でもよかったとは思いますが、五島慶太が「聖一国師」が好きだったということでしょうか。
静鉄さんに聞いてみます。
あべの書店さんはそれこそ、山田長政生家のすぐそばですよね。
それにしても国策に翻弄されるというのはあり得ることです。
長政顕彰でもよかったとは思いますが、五島慶太が「聖一国師」が好きだったということでしょうか。
静鉄さんに聞いてみます。
Posted by クールなお at 2010年01月20日 13:40