清水もつカレー総研事務局・清水ブランド大作戦事務局
2011年01月12日
民主主義の限界
「国家の品格」の著者、藤原正彦氏がNHKラジオ第一の日曜インタビューで、短い時間だったが痛烈に現代日本を評していた。
そして、それは我々戦後に育った者たちの、物事の進め方への否定だった。
戦後の民主主義の「学級児童会」からのやり方、
みんなで考えよう
→そんななかからは何も出てこない。
会議を延々とやる。
→何も解決しない。
現代の日本には課題を解決する能力がなくなってしまった!というのだ。
それはなぜか。
教養がない!と切り捨てている。
課題の解決は、能力・教養のある個人が死ぬ気で一月も呻吟しながら考え抜く。
そんな中からしか出てこない、という。
どうも、金科玉条のごとく思ってきた「民主主義」も限界というか、負の部分があること
そしてアメリカのすすめるグローバル化に世界が疑問を持ち始めた時代だといえるのではないか。
一週間前の静岡新聞「論壇」の冒頭、竹内宏氏は
「約20年前に冷戦が終結したときには、民主主義で市場経済の国家だけが豊かになれると思ったが、実はそれは錯覚だった。」という文書から論を進めている。
そして、
「二百数十年の歴史しかないアメリカが、自己の価値観(民主主義と市場経済)を、数千年の歴史と10億を超す人口をもつ2大国(中国・インド)に押し付けるのは無理だ。・・・
アジアが経済・思想ともに欧米を圧倒する時代になり、アメリカと価値観を共有している日本の身の振り方が難しくなった。中国やインドの哲学や歴史を学ぶ必要がある」
と結んでいる。
その日本には、「逝きし世の面影」藤原京二著 平凡社ライブラリー(多分藤原氏もこの本から示唆を受けている)にもあるように、貧しくはあっても幸福であると欧米人にいわしめた文明と歴史と哲学があった。
アメリカ追随ではなく自分たちの国日本が、どんな国だったかを思い起こし、
民主主義と市場経済のもたらしたもの、そしてこれから進むべき世界、これを日本が自分の頭で考えるときが来ているときだと思う。
そして、それは我々戦後に育った者たちの、物事の進め方への否定だった。
戦後の民主主義の「学級児童会」からのやり方、
みんなで考えよう
→そんななかからは何も出てこない。
会議を延々とやる。
→何も解決しない。
現代の日本には課題を解決する能力がなくなってしまった!というのだ。
それはなぜか。
教養がない!と切り捨てている。
課題の解決は、能力・教養のある個人が死ぬ気で一月も呻吟しながら考え抜く。
そんな中からしか出てこない、という。
どうも、金科玉条のごとく思ってきた「民主主義」も限界というか、負の部分があること
そしてアメリカのすすめるグローバル化に世界が疑問を持ち始めた時代だといえるのではないか。
一週間前の静岡新聞「論壇」の冒頭、竹内宏氏は
「約20年前に冷戦が終結したときには、民主主義で市場経済の国家だけが豊かになれると思ったが、実はそれは錯覚だった。」という文書から論を進めている。
そして、
「二百数十年の歴史しかないアメリカが、自己の価値観(民主主義と市場経済)を、数千年の歴史と10億を超す人口をもつ2大国(中国・インド)に押し付けるのは無理だ。・・・
アジアが経済・思想ともに欧米を圧倒する時代になり、アメリカと価値観を共有している日本の身の振り方が難しくなった。中国やインドの哲学や歴史を学ぶ必要がある」
と結んでいる。
その日本には、「逝きし世の面影」藤原京二著 平凡社ライブラリー(多分藤原氏もこの本から示唆を受けている)にもあるように、貧しくはあっても幸福であると欧米人にいわしめた文明と歴史と哲学があった。
アメリカ追随ではなく自分たちの国日本が、どんな国だったかを思い起こし、
民主主義と市場経済のもたらしたもの、そしてこれから進むべき世界、これを日本が自分の頭で考えるときが来ているときだと思う。
Posted by クールなお at 21:02│Comments(2)
│essay
この記事へのコメント
会議を延々とやるのが嫌な教員は多いですよね(僕もそうですが)。
宮本常一だったかな、民俗学者の本を読むと、日本の村では何かひとつを決めるにも寄り合いを延々とやる、延々とやってそれぞれの都合を出し合う、けれども一旦決まったらそれに従う、GHQがやってきて民主主義などを押し付けようとしてるけど、日本の村には昔から民主主義があったと、そんなことが書いてあります。なので、延々と続く会議は日本の伝統かもしれません。
民主主義とか自発性を重視した教育というのは、意外に明治の頃から始まっているもので、またそれを進めようとしたのは教養人が意外に多くって、それをすべて「戦後」とおっしゃるのは、むしろ歴史についての教養が不足されてるのではと思います。
教養と日本的民主主義はまったく関係がなくって、僕の経験では、会議を軽視して独断専行する方に教養が欠如していることの方が多かったですね。妄言多謝。
宮本常一だったかな、民俗学者の本を読むと、日本の村では何かひとつを決めるにも寄り合いを延々とやる、延々とやってそれぞれの都合を出し合う、けれども一旦決まったらそれに従う、GHQがやってきて民主主義などを押し付けようとしてるけど、日本の村には昔から民主主義があったと、そんなことが書いてあります。なので、延々と続く会議は日本の伝統かもしれません。
民主主義とか自発性を重視した教育というのは、意外に明治の頃から始まっているもので、またそれを進めようとしたのは教養人が意外に多くって、それをすべて「戦後」とおっしゃるのは、むしろ歴史についての教養が不足されてるのではと思います。
教養と日本的民主主義はまったく関係がなくって、僕の経験では、会議を軽視して独断専行する方に教養が欠如していることの方が多かったですね。妄言多謝。
Posted by 真丹後 at 2011年01月16日 07:25
「忘れられた日本人」だと思いましたが、決定するまで泊まり込みで会合を持ったそうですね。
最近ではワークショップで、どんな人の意見をも尊重し、捨て去らずに一覧にして、けっして否定せずに、判断し進む方向を決めていく方法がとられてきました。
また、明治の日本「万機公論に決すべし」がアジア諸国の近代化に大きく寄与したこともあったようです。
しかし、最近の情報過多のなかで、自分の頭で考えることをしなくなっている傾向は否めません。
また日本人の性行として声の大きい方に引きずられ異を唱えない、ということもおこりやすいことも確かです。
声の大きい人が、倫理的にも正義にもまっとうな人なら良いのですが、そうとも限らないのが世の常です。
支配階級が、漢籍の素養を持ち、下級層のものも肉体や労働を通した知恵を持ち合わせている人々の、会議ならいい結果も出ると思います。
しかし現代はそうでもなさそうだというのが、藤原氏の嘆くところでしょうか。
最近ではワークショップで、どんな人の意見をも尊重し、捨て去らずに一覧にして、けっして否定せずに、判断し進む方向を決めていく方法がとられてきました。
また、明治の日本「万機公論に決すべし」がアジア諸国の近代化に大きく寄与したこともあったようです。
しかし、最近の情報過多のなかで、自分の頭で考えることをしなくなっている傾向は否めません。
また日本人の性行として声の大きい方に引きずられ異を唱えない、ということもおこりやすいことも確かです。
声の大きい人が、倫理的にも正義にもまっとうな人なら良いのですが、そうとも限らないのが世の常です。
支配階級が、漢籍の素養を持ち、下級層のものも肉体や労働を通した知恵を持ち合わせている人々の、会議ならいい結果も出ると思います。
しかし現代はそうでもなさそうだというのが、藤原氏の嘆くところでしょうか。
Posted by クールなお at 2011年01月16日 16:10