清水もつカレー総研事務局・清水ブランド大作戦事務局

2009年10月02日

スピリチャル通り2 霊地清水

遠く平安時代には東下りの貴族たちは、三保から富士山を遙拝したという。
雪舟が描いた富士山には、清見寺に五重塔がそして三保の崎には神池が描かれていた。

明治期、三保に最勝閣という御殿を築き本部をおいた田中智学の国柱会は日蓮主義運動を展開。
高山樗牛はその影響を受けた明治新仏教の推進者であり、
宮沢賢治も終生国柱会の信者で、妹トシの遺骨をもって三保を訪れた。

明治32年、大本教の出口王仁三郎は三保神社また月見里稲荷神社の神官長澤雄楯(かつたて)のもとで修行し、神懸かりになった。

長澤の弟子には、谷口雅春(生長の家)、岡田茂吉(世界救世教)、中野与之助(三五教)浅野和三郎(心霊科学協会)などがいる。

もうひとり三保の生まれで、出口王仁三郎とならぶ霊力を持った宮城島金作という人がいて若くして亡くなったが、三保神社の扁額は彼が神懸かりになって書いたものだという。

戦後、新興宗教が各地におこったがなかでも清水にはPL教団、三五教の本部があり「邪教の巣窟」と取りざたされた事もあったという。

このように清水は宗教事象の多い地であり、霊地でもある。
富士山とフォッサマグナの地磁気の影響かもしれない。

このような地、清水の駅前銀座を、スピリチャル通りにする理由は充分あると思われる。

宗教による世直しが駅前銀座からはじまる、明治維新の前年東海地方に「ええじゃないか」がおこった。

「ええじゃないか」


スピリチャル通り構想


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Posted by クールなお at 12:06│Comments(10)駅前銀座
この記事へのコメント
なおさん、もつかれさまです。

さて、神道系はもともと大らかですが、ご存知のように新興宗教の一部や、キリスト教、イスラム教は基本的に原理主義です。

スピリチャルを日本語でどう訳すかにもよりますが、一ヶ所にたくさん並んでる事が、誰にとって有益であるかと言えば、その場所(つまり苦しいときの神頼みをする商店街)だけでは無いでしょうか?

言葉が過ぎたら謝りますが、精神的に何かを求める人々にとって、宗教のデパートであるとか、ここへ来れば何でもそろう的な発想は、必ずしもありがたくないと思います。

ただの思いつきであればよいのですが、万が一、少しでも本気であるならば、こと宗教関係については、慎重な姿勢がよろしいかも・・
Posted by よのじ at 2009年10月03日 12:02
>よのじさん
宗教関係はビミョーなところがありますが、
戦後間もないころの、荒くれたものでは民衆受けしない、
という自覚があるのではないでしょうか。

ものが満ち足りた時代の宗教は、穏やかなものがあるのではないのかと。
スピリチャルという言葉をどう定義するかですが、
人々の心の底辺にそれを求めるところがあるのは感じます。

それを利用し、誘導するようなものでは本物ではないのですが、
少し現代の人々に宗教への免疫製を持たせないと、
第2第3の邪教がはびこる様な気がします。

それにしても、宗教が人々から敬遠されるのはいい状況とはいえないと思います。
自然を敬う、大いなるものを感じる、謙虚な気持ちになる、人のため世のため、地域社会のため、日本のため、先祖が守ってきたこの地を守り育てていく、そういった心を信仰がもたらすものではないかとも思います。
Posted by クールなおクールなお at 2009年10月03日 19:19
確かに宗教は難しい面はありますが、かといってむやみに敬遠されるのも困る。これは宗教者の側の悩みでもあったりするようです。
宣伝ということを抜きにしても、自分たちの宗教の本当の姿を知ってもらいたい、知られていないという危機感もあるようなので、いろいろな宗教の方が、一般の方と気楽に話をするような場でもあれば、それは両者にとってメリットではあるでしょう。ただ勧誘の場にならなければ、ですけどね。

生駒のような、占いさんや拝み屋さんなどの集う場所というのは、それとはまた区別して考えた方がいいように思います。以下のようなニュースもあるので、スピリチュアル通りのようなアイデアは各地で出てくるのかもしれませんが、面白いような、あぶないような。うーん。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091002-OYT1T01334.htm
Posted by 真丹後 at 2009年10月04日 10:08
>真丹後さん
イタコの口寄せが、大好評なのは分かりますが、やはり恐山でやり、そこまで足を運ぶからいいのではないかと感じてしまいます。

では清水の駅前通りに、宗教団体の出先機関?出張所?がでてくるのとどう違うか?といわれると困りますが、

イメージするのは、辻説法ですね。

道徳や倫理の荒廃が進み、なんでも自由だという考えや、お金が一番という考え、生命の尊さ、死んだらどうなる、つまりなんのために生きるんだ、といった話を聞く機会や考えることがなくなった社会で、

信仰が持つ意味は大きいと思います。

それが、街中にある、ということは素晴らしいことではないでしょうか。

占いさん、拝み屋さんの集まる場所とはちょっとイメージがちがいます。

まちが人々の求めるものに答えることで生き残る、としたら一つのいい構想ではないかと思います。
Posted by クールなおクールなお at 2009年10月05日 10:40
なんだかすごいコメントが続いていますが、それに対峙しているなおさんもまたすごいですね。

明治政府の神道政策の一環として設立された皇典講究所。そこから、「国法」の教育機関として誕生したのが、私の出た日大、「国典」、「国史」の教育機関として成立したのが弟の出た國學院。
わが家は、曹洞宗の檀家ですが、神道の氏子でもあります。神道の中には素晴らしい言葉がいっぱいあります。
まさにジャパニーズ・ロハスの世界があるようです。

スピリチュアル通りには「日本」というキーワードが似合うかもしれません。

変なコメントをお許しくださいね。
Posted by おっち at 2009年10月12日 12:21
>おっちさん
神道は素晴らしいものだと思いますが、
明治政府の廃仏毀釈はいただけません。

新暦採用もいいが、旧暦の暮らしを新暦でやるというのもいただけません。

今回の当店で行われた「石榴」のイベントも、とってもスピリチャルなものでした。
三人のヒーラーがセッションしているのを間近にみて、とてもそのことを感じました。
精神世界の夜明けが近い、という感じさえしてくるのでした。

その日のために魂の浄化に励みましょう。
Posted by クールなお at 2009年10月12日 19:41
今朝、近所のプロテスタント教会の前に人が集まってるのを見たとき、キリスト教なり新宗教なりにでも属していないかぎり(あるいは普通の仏教信者である場合)、宗教のことを語り合う空間が乏しいのを痛感しました。

普段私たちは、私たちの日常世界をひとつ越えた部分を無いものとして生活しています。それはそれで大事なことなのですが、それだけでは人生は貧しくなってしまいます。しかし日常を越えた広がりは、多分、すべての人が感じているものでしょう。それを語るような空間、つまりプロやセミプロから普通の人に一方的に語るのではなく、普通の人の語りを聞くような場所がないといけないのかなあ。極端な例ですが、たとえば庵原平四郎も、とんでもない経験をした後、白隠に出会わなければ、多分妄想で終わっていただろとおもいます。

そこまでいかなくても、要は、無粋にならずに飄々乎と宗教について語り合う場所があってもよかろうと思うのですが。
Posted by 真丹後 at 2009年12月27日 14:23
年末年始を迎え、初詣、初日の出と日本人のDNAによるところの、もう一つ向こうの世界への儀式を風物詩のように過ごす週に入りました。

信仰を語るには、ウィリアム・ジェームズも日蓮さん?もいったように、このお師匠さんにだまされて地獄に堕ちようともかまいませんという覚悟が必要ですが、現代人にはそのような覚悟は見られませんし、馬鹿にされるとか非科学的とかのつまらない非難にさえ耐える意気地もありません。

論争にならないように、相手の人格を否定しないような、ひょうひょうとした、私達の来し方行く末を語る場が必要だと思います。

団塊がこれから死にゆく世代となってくるので、需要はあると思いますが、受け皿となる教団はやはりキリスト教とか仏教とか日本神道といったオーソドックスなものになるのでしょうか。

庵原幣紙楼のことは過分にして知りませんでした。昨夜もその吉原に住んでいる市役所職員と一緒でしたが、これから機会をとらえて調べてみたいと思います。
Posted by クールなおクールなお at 2009年12月27日 16:31
旧清水市域は寄り合い所帯なので、湊の清水、街道の江尻、在所の庵原と、宗教文化もかなり異なるように思われます。江尻は徳川に縁のある格の高い寺もあり保守的といえば保守的、清水は進取的であると同時に流動的で、教祖も信者も他所から来て他所へ去っていく場所、庵原の一帯は文化も奥深いところがあって、近代には報徳運動が盛んでした。清水の宗教文化は、そういう多様性がおもしろいです。

>受け皿となる教団
教団が頼りになればいいのですが。まずは人間でしょう。ただ、近代日本はそういう人材にお金をかけずに来たわけです。そういう過去からしっぺ返しを受けているわけですから、名僧や巨人はもはや望むべくもありません。一人のカリスマやひとつの教団に頼るのではなく、いろいろな分野の半俗半聖の先達たちによる、いわば集団指導体制のようなものを考えるのが賢明だろうと思います。一般人の宗教話に耳を傾け、受け止め、時にはアドバイスを与え、あるいは受け止め切れなかったら他の先達にバトンタッチできるような、そういうネットワークですね。夢のような話ですが。
Posted by 真丹後 at 2009年12月27日 21:53
清水が寄り合いとはなるほどと思いましたが、静岡との合併はそれに輪をかける愚行ということになるかも知れません。
人口が減少していく縮小社会では、大きくて何でもあるというフルセット型まちというのは、身体がやせたのに昔の大きな服を着ているというような状況になりかねません。
それより、それぞれの個性を尊重しあい、連携し、助け合っていくという時代が来ているような気がします。

家族が減り、高齢化し、車を捨て大型テレビを捨て、FMラジオを聴いて読書をし自転車で出掛ける生活になっても、それは貧しくなったとはいわない。

そんな時代には、生活の質が重要になってくるでしょうが、哲学・宗教・信仰が質を高めるには必要とされることだと思います。

集団指導体制ができればいいのですが、きちんとしたルールが必要ですね。非難論争はしないとか、その場での勧誘はしないとか。

でも、倫理とか道徳というふうになっても面白くない。

辻説法の場として、中心街で代わる代わる「説教」をするイベント?がいいですね。
公共施設が宗教を排除していますので、「まち」がやることは意味があると思います。
Posted by クールなおクールなお at 2009年12月28日 17:33
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スピリチャル通り2 霊地清水
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